ピエール・カルダンという男がやってきたことは、数知れない。「モードの民主化」と呼ばれたプレタポルテを誰よりも先駆けて始め、デザイナーで初めてライセンスビジネスを興し、インテリアから車、ジェット機まであらゆる生活環境製品をデザインし、中国で、ロシアで初めてファッションショーを開いた男。実業家としてあのパリの高級レストラン「マキシム」を経営し自ら芝居をプロデュースする男はモード界で初めて、そしてただひとりフランスアカデミー会員に選ばれ、ユネスコ親善大使として忙しく世界を飛び回っている。
「私はダンサーか俳優になりたいと思っていたが、いずれにせよ漠然としたものだった。ただひとつはっきりしていたのは“パリに行かなければならない”という気持ちだった」
1922年、第一次世界大戦後の荒廃したイタリアのヴェネチアで彼は生まれた。けっして裕福ではなかった一家は職を求めてフランスの地方に移住し、17歳のときカルダン少年はパリを目指す。知り合いの女性に教えられたパリの人物を訪ね、紹介されたのが「パカン」という大きなメゾン(洋裁店)だった。幸運にも彼はここで、詩人で作家でもあるジャン・コクトーの新しい映画「美女と野獣」の衣装チームの一員になることができた。その後30年代にはシャネルと並ぶ勢いがあったスキャバレリに移り、さらに3カ月後には当時花形デザイナーだったクリスチャン・ディオールの独立に参加。そしてその3年後、スポンサーのいない初めてのデザイナーとしてメゾンを開く。メゾンを開いた日、ディオールから巨大な144本の花束が届いた。カルダン28歳の時だった。